境城 三熊山(高熊山)の山頂付近、北斜面及び北部山麓一帯に分布する城郭遺構地域で広さは278459.9u。洲本城は、約500年の歴史があり、城に関連した史実を年代順に見ると次のようになる。
永正年間(1500年代初頭) 由良、炬口に進出して来た、紀州熊野水軍の安宅一族が、大阪湾制御の要として洲本城を築城し始める。
天文5年(1536) 阿波守護三好元長の三男冬康、淡路安宅氏の養子となる。三好氏 上京作戦への布石
天文23年(1554) 三好四兄弟(長慶、義賢、冬康、一存)洲本会議
永禄3年(1560) 三好兄弟 第二回洲本会議 天下制圧の打合わせ
永禄7年(1564) 安宅冬康河内飯盛城で兄長慶に暗殺される 安宅信康・清康、洲本、由良を守る
天正9年11月(1581) 織田信長の命により羽柴秀吉淡路を征討 安宅清康開城して信長を安土に訪れ帰国後病死淡路安宅氏滅亡 安宅氏時代の洲本城は、土塁を空堀により砦を守る中世山城なので 、織田軍の鉄砲隊には対抗出来なかった。
天正10年(1582) 四国の長曽我部氏畿内進出を計り、淡路土着の水軍の将菅平右エ門に洲本城を占領させる。6月、山崎の合戦に向う秀吉は、部将の仙石権兵衛、石川与次兵衛を洲本に差向け、洲本城を奪還させる。8月、仙石権兵衛秀久洲本城主となり、四国攻めの準備で洲本城を修築、水軍を強化し始める。
天正13年(1585) 秀吉の四国攻め始まる。弟秀長、養子秀次で戦闘指揮 6月18日 洲本城より出陣、福良渡海 仙石秀久は讃岐で奮戦、戦後高松城主となる。11月脇坂甚内安治(中務少輔)洲本城主となる。洲本城の本格的修築始まる。現在の遺構は殆んどが脇坂氏在城中に修築したものである。その間安治は水軍の将として、左のとおり従軍している。
天正15年(1587) 九州攻め
天正18年(1590) 小田原攻め
文禄元年(1592) 朝鮮の役(壬中倭乱)
慶長5年(1600) 関ヶ原戦では、東軍へ寝返り家康方で参戦
慶長14年(1609) 伊予大洲53000石に移封 仙石、脇坂時代の洲本城は、大阪城を衛り、秀吉が西南方で進出する拠点の城として、また水軍の戦闘指揮処としての本格的築城整備の行われた時代である。関ヶ原戦後の家康にとっては、洲本城は不必要な城となった。むしろ廃城にすべき城であった。そこでこの城を永年腹心の藤堂高虎に預け、普請を中断放置せしめた。
慶長16年(1610) 姫路城の池田輝政に淡路を領知せしめ、輝政は三男 忠雄の拝知とした。忠雄は由良成山城を修築し、洲本城を廃城とした。
元和元年(1615) 大阪陣の功により、阿波国主蜂須賀至鎮に淡路一国を加増したが、蜂須賀氏は池田氏の跡を継ぎ由良成山城を拠点とした。
寛永8年(1631) 由良は淡路の東南隅にあり、土地も狭小で城下の経営も出来ない事を理由に、前年幕府に申請して承認され、洲本の地に城地を移転するようになった。移転作業は、寛永12年迄続いた山上の城郭は使用せず、山麓に居館、石垣を設けて、城砦としたが、「お城」の呼称をせず「お居館」と呼ばせた。城下町は、洲本川・千草川の地形を利用し、本格的に計画都市として造成されている。この状態が明治5年(1872)の廃藩置県まで続いた。
明治時代以降 山頂付近、北斜面は公園地として洲本町へ払い下げられ、山麓の城地は裁判所、検察庁、拘置所、淡路文化史料館用地等になっている。
模擬天守
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